はじめに──3人の賢者との日常
わたしは日頃、3つのAIを使い分けている。ChatGPT、Gemini、そしてClaude。
といっても「使い分けている」という表現は、少し格好をつけすぎかもしれない。正直なところ、メインはChatGPTだ。メールの文面を整えるとき、チャットの文章を校閲するとき、プログラミングで詰まったとき、アイデアの壁打ちをしたいとき、ちょっとした調べものをするとき──日常のほとんどの場面で、まず開くのはChatGPTだ。
では他の2つはどうかというと、Geminiは画像生成では最初の選択肢になる。それからクイズ形式の学習など、インタラクティブなやりとりにも向いている。Claudeはプログラミングのコーディング支援や、長文の執筆で力を発揮してくれる。
こう書くと綺麗に使い分けているように聞こえるが、実態はもう少し泥臭い。ChatGPTで思ったような答えが返ってこなかったときに、「じゃあGeminiに聞いてみるか」「Claudeならどう答えるだろう」と次の候補に回す──という順番が正直なところだ。
ふと、この偏りが気になった。なぜわたしはChatGPTばかりを頼るのだろう。
なぜChatGPTに偏るのか──メモリーへの執着の正体
自分の使い方を振り返ってみると、ひとつの感覚に気づいた。
「ChatGPTなら、この前の流れを知っているから聞きやすい」
これだ。長くメインで使ってきたこと、そして早い段階からメモリー機能が充実していたこともあり、ChatGPTはわたしのことを一番よく「覚えている」AIになっていた。他のAIに相談するときは、状況に応じて一から説明しなければならない。でもChatGPTなら、それを省略できる。
たとえば、わたしは専門学校で教職に就いている。学生に向けた文章を考えるとき、ChatGPTはそのことを知っているから、「教師から学生へ」というトーンに自然と整えてくれる。いわば「暗黙の主語」を共有している状態だ。雑な聞き方をしても、的を射た返答が返ってくることが多いのは、この文脈の蓄積があるからだろう。
しかし、冷静に考えてみると、機能面で他のAIが劣っているわけではない。総合力ではGeminiが優れている場面もあるし、文章の質ではClaudeの方が上だと感じることすらある。プログラミングについてはChatGPTの回答が好みに合うことが多いが、これは個人差の範囲だろう。
つまり、わたしがChatGPTを選び続けている理由は、性能の差ではない。「わたしのことを知ってくれている」という、もっと感覚的なものだ。
その心理に名前をつけてみる──現状維持バイアスとサンクコスト
この偏りには、心理学的な名前がある。
ひとつは現状維持バイアス。人間は、変化によって得られる利益よりも、変化によって失うかもしれないものを大きく見積もる傾向がある。ChatGPTを使い続けているから、そこから離れづらい。今回この文章を書こうとしなければ、自分がこのバイアスの中にいることにすら気づかなかっただろう。無意識に作用しているからこそ、バイアスは厄介なのだ。
もうひとつはサンクコストバイアス。「せっかくここまで知ってくれているから」「せっかくここまで相談してきたのだから」──この「せっかく」という感情は、すでに投じたコスト(時間・情報・やりとりの履歴)を回収したいという心理そのものだ。過去の投資に引きずられて、現在の最適な選択ができなくなる。
面白いのは、これがAIとの関係で起きているということだ。本来、サンクコストバイアスは人間同士の関係や、投資、ビジネスの文脈で語られることが多い。しかし、AIとのやりとりにも「関係性」が生まれつつあり、そこに同じ心理が働いている。これは、わたしたちがAIを単なるツールではなく、ある種の「相手」として認識し始めている証拠なのかもしれない。
メモリーの分散は本当にデメリットなのか
ここまで書いてきて、ひとつの問いが浮かぶ。
メモリーがひとつのAIに集中していることは、本当に合理的なのだろうか。
たしかに、ひとつのAIにすべてを預ければ、文脈の共有は楽になる。しかし、裏を返せば、それは「ひとつのAIの得意分野も不得意分野も、すべてそこに任せている」ということでもある。
むしろ、3つのAIそれぞれに異なる文脈を持たせることには、合理性があるのではないか。
ChatGPTには日常の雑多な相談を。Claudeには文章の推敲やコーディングの深い議論を。Geminiには学習や画像生成を。それぞれに特化したメモリーが蓄積されていけば、各AIがその分野における「専門の相談相手」として成長していく。情報の分散は、リスクの分散でもある。
わたしが使っている3人の賢者たち──ChatGPT、Claude、Gemini。彼らの個性と、わたしの中での使い分けがより明確になっていけば、それぞれに異なるメモリーが蓄積され、それぞれに適した「人格」のようなものが育っていくのかもしれない。
おわりに──「自分の情報をどこに預けるか」という問い
「AI時代」という言葉がある。しかし、真のAI時代とは、人々が「AI」という言葉をわざわざ使わなくなったときに訪れるのだと思う。電気やインターネットがそうであったように、意識すらしない当たり前のインフラになったとき、はじめてそれは時代の一部になる。
そのとき、「自分の情報をどこに預けるか」という問いは、もはや意味を持たないのかもしれない。情報を預けるも預けないもなく、AIとの共生なしには日常が成立しない世界。それは遠い未来の話ではなく、今まさにその入り口に立っている。
わたしがChatGPTから離れられないこの感覚も、その入り口に立っているからこそ生まれるものだ。ツールへの依存ではなく、新しい関係性の萌芽。そう捉えると、この小さな偏りの中にも、時代の変わり目が映っているように思えてくる。
